変化1

今年は随分といろんな感情を味わった
年だった気がする。


結果、自分がどうしたいのかが
浮かび上がりつつある。
(まだあと一押しなカンジだが)


スゴい人になりたいってのを
肩書きとか、職種で実現しようと
していた。
それしか方法を知らなかったのだと
思う。
自分の才能を認めさせたいって
気持ちがあったのかもしれない。


自分の中の空っぽな部分をそれで
埋めようとしていたのかも。


けれども、やればやるほど更に
空っぽになっていく自分を感じて
マズイと思ったのが今年の頭。
それ以前に昨年5度も高熱を出した
のなら、もっと早く気がつけよって。


私の父はものすごい癇癪持ちで、
私たち姉妹に多分自分の空っぽを
埋めさせようと無意識にした人だった。
母が早くに亡くなったため、それは
加速の一途。


私たち姉妹は、何が正しいか判断の
基準が分からなくなり、大人になって
その父の正しさに従うことが苦痛
だったのか三人共にウツ病
パニック障害適応障害を発症。


全てが父のせいとは思わないが
大きな要因だ。


けれども、実の父から愛情を受けて
当然、いや受けたいと熱望して
いたのだろう。
だから、そんな風に癇癪を起こす
ことも受け入れなきゃって思っちゃっ
たんだろうね。苦しいのに。


そして、それについて話をすること
はタブーだと三人共に思っていたの
だろう。


再婚してからは、義母に媚びている
父をみるのが気持ちが悪かった。
義母も人間的に気持ちが悪いと
感じる人だった。
(世間体が全ての人)


けれども、「家族は仲良く」という
何処かから探してきた言葉をなぞらな
きゃといい子発動の我々だったのだ。
そして、ジンワリと自分についた
嘘に侵食されてしまったのだろう。


次女が離婚して子どもがいたので
実家に帰るしか道がなく、それを
実施したが拗れて、縁を切ると
実家を飛び出した。


長女の私は先々月父に勘当された。


それについて、三人で話したことは
ない。(次女と私は、私がやいた
お節介に次女が腹を立てて以前の
ような親しさを保てていないのだ)


ふと、一昨日、三女に電話をした。
正直、家族問題にうんざりして
おり、自分もこのところ身の振り方
に悩んでスッキリしていないので
普段はしない行動だった。


最初は世間話を楽しくしていたが、
実家の話を妹が始めた。


こうなると、ネチネチと解決しようが
ない話を一方的に話し、私が「仕方が
ない」というのが冷たいといつも
気分が悪くなるので「あぁー
また来た。電話しなきなゃよかった」
と思い出した。


妹が私を責め出した時に、私は
いつもと違った行動に出た。
妹には話すまいと思っていた出来事を
話してみた。


それは、昨年、私が住んでいる県を
父が義母の兄弟からみで私に内緒で
訪れていたという話を電話をした
際にわざわざしたという寂しい話。


私は、その時、ショックだった。
いつも会いたいから実家に帰って
こいという父が、こちらに来たのに
一言もなかった。
それだけでなく、それを終わってから
私に話すとは…。


私がそれを聞いて悲しい思いをする
とは思わなかったのだろうか?


私はすごくショックだった。
同時に私の中での父は死んだ。


その話は、妹たちへはしてはいけない
気がして話していなかった。


それを話した。


妹は父から私に会いに行かなかった話を
聞いていて「なんで、行かないの?」と
父を責めていたらしい。
私が、その話を父から聞いて知って
いたことに猛烈に怒った。


私は、そんな人だと思うし、これまで
数々受けた言葉の暴力は嫌なので、
長女としてみんなの仲を取り持ったり
を父が望んでいてもできないのだと
初めて妹に話した。


私は、そんな話は、自分と父の問題、
つまりは私が相手をどう思うかだと
思っていたので、わざわざ説明を
してこなかった。


上の妹と拗れた問題も、私のした
ことがその時はそれしかできなかった
が、後からそれが正しいと思えず、
妹が心を閉ざしてしまって私を
許せなかったという事実しかない
のだからどうしようもできないし、
私がそれをベラベラ他のみんなに
話すのは違うと思って話さなかった。


それらは、「家族に冷たい」という
感じを与えていたらしい。
ことあるごとに責められた。


私は、様々、自分が苦しくなるなら
家族はなかったことにしていいと
思っていた。


ーつづく